コスモル『藻屑踊』(作・演出:石橋和加子、下北沢OFF・OFFシアター)

に行った。自分が言ったりやったりすることが他人には伝わっていないのだな本当に、と最近はそんなことばかり考えている。いまさらそんなこと、あまりにナイーブに過ぎますぞ、と言われると、まぁそれはそうなので、そうなのである。もちろんそんなにナイーブではない意味でも考えているのだが、ナイーブな意味でも考えているので、それはまあいい。「伝わった」という状態を、コミュニケーションが成立した、と、差し当たって言い換えるならば、おそらくはコミュニケーションが成立したふり、または本人も成立したと思い込んでしまうこと、が問題なのではないか。特に自分は、相手にそういうふりをさせたり思い込ませたりする無言の圧力を発してしまうというか醸し出してしまうことに関してはなかなか右に出る者がいないのではないかという気もするので、そう。そうなのだ。別にコミュニケーション自体は手段というか、それ自体が目的では決してないのであって、そこから先に行きたいので、そのためには分かったふりや分かったという思い込みを見抜かなければならない。この無言の圧力体質自体はもう仕方がない。まぁこの「ふり」とか「思い込み」という発想自体がもしかしたらものすごく不毛というか、そんなことだからお前は駄目なんだ、と、自分に無駄に鞭打ってみたりする、そんな感じでずっと観ていた。同じくらい、他人に対しても心のなかで怒りを感じていた。自分に鞭打つみたいなことっていうのは、環境が快適でないときの内的合理化である(いじめられて、少なくとも一度は、自分が悪いと思ってみたりすること)なんてことは自分でもよく分かっていて、まぁとは言ってもだからお前は駄目なんだと自分で自分に言ったことは本気でそう思ったのは、本気で思ったのである。ちょっと思いついたのは、イライラする、むかつく、怒る、という感情は全て違って、左から順番に、それしか出来ない人というのがいる気がする。一番レパートリーが少ない人は、「イライラする」しか出来ない。「むかつく」ことが出来る人は、「イライラする」も出来る。「怒る」まで出来る人は、あまりいない気がする。キレる、っていうのはまた全然別だ。左の方がスカラー量の小さい感情であって、しかし対象化の度合いも低い(だから擬態語的なのである。「イライラ」が一番直接的で、次は「ムカ」)。したがって、右に行くほど、自分だけでは済まない感情になっていくとも言える。左の方は、自分だけで済んでしまう感情だ。