SePT独舞vol.16『さよなら』(振付・構成・出演:矢内原美邦,出演:足立智充/関寛之/高橋幸平/矢沢誠/三浦舞子,映像:高橋啓祐,衣裳:スズキタカユキ,宣伝美術:野田凪/吉田ユニ,三軒茶屋シアタートラム)

を観に行った。宣伝美術スタッフに野田凪の名前があったのとあとはチラシから若干危惧していたのだが、やはり、多少ナイーブにセンチメンタルであったことは否めないだろう。そしてそこからが問題なのだが、おそらくはこの「さよなら」というワンフレーズが不可避的に持ってしまうナイーブなセンチメンタルさと正面から向き合うことは大変に難しいことで、だからこの「ナイーブにセンチメンタル」というのはネガティブな含意ではない。ということを踏まえたうえで、振りとプロジェクターの映像と言葉、そして何よりも衣裳が、ナイーブにセンチメンタルだったのは、おそらくは、それでよい。「それでよい」最大の理由は、まさに矢内原美邦の身体性がそのナイーブなセンチメンタリズムに接続するからだ。矢内原美邦の身体は、洗練や硬質、覚醒といったタームよりは、むしろ野田凪の方へ接続するのだろう。およそ何かしらへの「さよなら」によるものであると考えられるさまざまな喜怒哀楽があるとして、まぁそんなことが頭をよぎると最初に連想される言葉は「喪の作業」というこのどうしようもなさをどうしよう。自分はほとんど日常的に失恋することにかけては右に出る者はいないと思われるほどに人に対して愛を捧げながらもそれを手ひどく撥ねつけられ物陰に捨てられ弄ばれ蔑ろにされ嘲られ、とどんなに被害妄想なのか分からない人みたいだが、とにかく、それでも喪に服してなどいない。博愛と言われてもそれは愛なので、そこに触れられなければそれは失恋になり、実は服喪が必要なのかもしれない。