作田啓一・井上俊編『命題コレクション 社会学』筑摩書房

読了。もう最近はこんなものばっかりで、で、自分の専門についてはあまり書きたいことはないな。あ、「予言の自己成就」について、この命題がなぜ面白いのかということをえんえんと書いているくだりがあった。それでそれは社会学的という以外に、美的に面白いものなのであるということが書いてあって、いやー、それは面白いなと思った。あとは学説史上有名なジレンマがいくつも出てくる。それにしても、ちょっと勘のいい若者であれば、アポリアとかジレンマとかいうことが、どんなにレトリカルな物言いかということにはすぐさま気づいてしまうだろう。本当に分析哲学的に、気づいてしまうだろう。つまり前提の立て方や問題構成の仕方に疑義を差し挟むことによって、いとも簡単に矛盾が無矛盾に、無矛盾が矛盾になるわけで、まぁゲーデル以降にこんな書き方をするのはそれ自体不謹慎なことかもしれないが、とにかく、それはレトリカルな問題なのである。だからこそ「〜〜というジレンマ」などと言われても、何がジレンマなんだかさっぱり分からないという事態がおこる。若者は、そのようなジレンマのただ中に生まれ、育ち、またそのようなジレンマを生きているからである。ということはみんな無自覚的に分かっている。そしてまぁアポリアとかジレンマとかいうことに対して不感症になってしまうのだ。不感症になったあげくに一足跳びに物語パラダイム実証主義的論理に対置される、拡張された内的因果性の緩やかな整合性のみに基づく論理をさしあたって「物語」と呼ぶ。認知においても知的生産においてもこの物語論理こそが人間にとって不可避かつ不可欠である、というパラダイム、を勝手に作ってみたが、どうか)に移行してしまって、勝手に手前で作ったお話の世界でジレンマ遊びをして(自分で勝手に作ったジレンマで勝手に悩む)しかもそれに気づかなくなってしまう。「レトリック」というレトリックや物語パラダイムというのは、そんなクソ安易な相対主義やヒロイズムのためにあるのではない。そんなものを目にすると「お前らはどうしてそう安直でナイーブなんだ!」と思いもするが、安直でナイーブでいけないということはないのかもしれない。このアンチナイーブというのは一つのドグマである。もっと相対化して言えば、ドグマでさえなく、一つのメンタリティである。まぁ相対化の程度は、妥当性によって決めればよい(決められなければ個々人の意志として選択すればよい)。アンチナイーブということに、どの程度の妥当性があるのかは、考えなければならない。