若林幹夫,2003,『都市への/からの視線』青弓社

読了。もうタイトルからしてあからさまにポストモダンだ。ちなみに『動物化するポストモダン』を「動ポモ」と略す文化があるらしいことを今知った。プロ倫みたいなものか。嗤ナショ。ばーか。この本も「視線」じゃなくて「まなざし」とかだったら完璧パーぺきだったのに。しかしまぁ今までこの辺の思想思潮著作群などをはしからばかにしまくってきたわけだが、自分の問題関心にひきつけてみると、まだそれなりに擁護できる部分がないわけではない。ような気もする。というか、常にSo what?と思いながら読んでいると、少しは「使える」部分とまったく「使えない」部分が自然と見えてくる。ちなみにポストモダンの何がむかつくって、何の役にも立たないくせに、現代という時代や現代を生きる人間はすでにポストモダンを通過しつつあり、そのなかでさんざっぱら苦汁をなめさせられているからだ。まったくあとさき考えないポストモダン的言説が、男の子の愚かさと女の子の哀しさを、飛躍的に増大させたからだ。その言説に絡め取られてしまうと大変かわいそうなことになる。かわいそうだし、むかつく。かわいそうだったりむかついたりするのは自分がいろんな意味で欲求不満だからだということはよく分かっているので、実はやっぱり自分の欲求を叶えることが第一義的に必要なことなのだ。それでまぁそういう態度がおそらくはもっとも直接的なカウンターなのである。去勢されmanipulateされて歪曲されたへんてこな欲求を持った人々をかわいそうで腹立たしいと思うなら、真率真摯のかぎりを尽くして自分の欲求を叶えることだ。表紙は言うまでもなく、NTTドコモ代々木恥ずかしビルである。