イデビアン・クルー『補欠』(振付:井手茂太、世田谷パブリックシアター)

を観に行った。観ながら色々考えた。全体的に珍しいキノコを彷彿、って感じのボキャブラリーと衣裳の色(ユニクロ風)であった。よってそんなにセンスが悪いわけではない。むしろよく出来ていると言ってもいい。ただしリフレインの多用に代表される安直な構成など、珍しいキノコが絶妙のバランス感覚で回避している陥穽にずぼずぼはまりまくっている(さらにただし、最後のリフレインだけはカタルシスがあった)。しかし公演の最初から最後まで考えていた問題はこんなことではなくて、大きく分けて二つ、笑いと身体である。一つ目の笑いのほうは割りと簡単な話で、まぁ何と言うか面白いっぽい雰囲気だけしかなくて実は全然面白くないシークエンスばかりで、全然笑えない。あぁいう「ここは笑うところなんですよ、お客さん」みたいな態度は犬に喰われれば良い(もちろんある種のコードとしてそういった態度が表出しない場合はありえないわけで、問題はそれがあからさまで下品であるという点であるし、もっと言ってしまえば、結局笑えねぇんだよ、ってことでもある)。そこでお客が笑ってしまうことは半分まで仕方がないとは思うが(徒然草にも李の木の話がある)、笑わないほうが演者に対して教育的であるとも思う。難しいのは二つ目の身体の問題の方である。何が問題かと言うと、有り体に言って、ジェンダーの問題である。と感じた。まず、出演者全員が女装である。終盤の扮装など紛れがあるにはあるが、ほとんど全部女装と言ってよい。女性まで女装である。と感じた。衣裳はかなり丈の短いワンピースで、みな金髪のかつらをかぶる。ここまで書いて気づいたが、何がどう問題であると感じたのか、今ひとつはっきり言葉に出来ない。作品全体のエートスというか、何かそういうものが、女性の身体に対して大変暴力的である、と感じたのである。その暴力のあり方というのがきわめてコンテンポラリーであると感じたし(言葉遊びではなくて)、それはフェミニストを標榜する男性にありがちな暴力性であるという気もした(あるいは女性という存在に近づき理解を示そうとすることで自身の無罪と非暴力性を担保しようとする男性の暴力性)。その暴力を受ける女性の身体はと言えば、これは彼氏に求められてセックスを拒めない彼女、というきわめてアクチュアルな現象としての身体が舞台上に見え隠れしたのだった(自分が「身体」という言葉を使うその使い方が綱渡り的に過ぎるのではないかと危惧するが、別にAVやエロマンガみたいなことを書きたいわけじゃあない)。それは、ともすれば言葉遊びに陥りがちな(まぁもちろん言葉遊びであるとばかりも思わないが)ポストモダン系のフェミニズム(いわゆる脱構築フェミ)が最後の最後に問題にしようとしたきわめて隠微な種類の問題である。それはあまりに構造的であまりに深く埋め込まれており、もはや分離して決別することが不可能であるような身体の位相である。その問題はあまりに巧妙かつ緻密であるために問題であると認識されもせず、また問題として苦しまれることもなく、しかし厳然としてファックである。そういう問題のためにこそ生きていようとも思うが、同時に死にたくなるほどの問題でもある。"Yer Blues"の歌詞のようだ。If I ain't dead already, Ooh ! Girl, you know the reason why. しかし作品のどこがどういう風に問題だったのかと言うと、それがうまく言葉に出来ないので困る。これでは完全な言いがかりではないか。少なくともそう取られても仕方ないよな。とにかく、どうしようもなく暴力的な世界ではあるが普通に人間は生きているしそんな暴力的であるという認識なんか女性のほうで軽やかに逞しく飛び越えられこそすれ認識が女性を飛び越えることなど絶対にありはせずに勝手にテメェが絶望してる分がぶったまげるほど損に思えるんだけどそれでもやっぱりどこかで搾取とか抑圧とかいう言葉が誠に遺憾ながら有効であるのではないかと考えたりもしてはたまたそうは言ってもあんま被害者扱いして同情ばっかすんなよっていうこれはもうほとんど痴性とでも呼ぶべき理性だか何だかももちろん働いてしまうのである。ってことを全部上演時間中に考えた。これはもはや観た公演の問題などではなくまさに時代の問題であったのだと思う。ダンスは別に悪くないもんな。おしゃれっぽくてかつ暗くない、それでいてちゃんとしたコンテンポラリーダンスを観たい、という人には大変おすすめ出来る。