乞局『廻罠』(作・演出:下西啓正、王子小劇場)

を観に行った。この劇団の前回公演を、知人が二人も褒めていたので。うむ。面白かった。しかしこれを「悪意」として観るのは、多少表面的に過ぎるように思われた。前回公演のことは知らないけど。もちろん舞台上の会話は(会話劇である、というのは重要なので確認しておく)うまくいっていない、というか、さまざまなコンフリクト状態が渦巻く、目もあてられないような事態であるということはそれはその通りなのだが、この作品が明らかにしているのは、「悪意」ではなく「甘え」である。もっと言えば、言語が持つしょうもない甘えの側面である。おそらくこの点がもっともポツドールからかけ離れている点である、というのも、ポツドールの悪意や怒りやまぁキレるというところに甘えはないからだ。しかし乞局は、甘えている。全てが甘え腐っている。それは今回の公演について言えばもちろん登場人物の一人によって凄く明確にされることではあるのだが、甘えているのはひとりではないし、特定の部分がということでもなく、全てのせりふに甘えが見え隠れする。たとえば「甘ったれたキレ方」というのがあって、そう、キレる時も人は相手に甘えるのである(一般的な話だ。ヤンキーのあんちゃんがする舌打ちや、2ちゃんねらーのコミュニケーション形態、オレもあんまこうやって怒ったりしたくないんだけどさ、ちょそれまじむかつくんすけど、エトセトラエトセトラ)。泣いたり笑ったりするときに甘え心があるというのは当たり前すぎることである(「泣いて同情を誘おうっていうの?」とか「媚びた笑い」とか、枚挙に暇がない)。上に言語が云々と書いたのは、甘えの重要な特徴として「言わないでも分かってほしい」という気持ちがあることと関係する。ここで甘えながらキレるというのがどういうことか分からない人はきっと甘ったれなんだろう。ただし、全ての発話が甘えになる、なんてことを言ってしまうとカイジ利根川さん(お前らは幼児と同じで、求めれば周囲が右往左往して世話を焼いてくれると思っている。質問すれば答えが返ってくると思っている)に一理を見出す高校生とさして変わらないので(まぁ一理ぐらいならいいけど)、そこは何とか回避したいわけだ。それでも発話一般に備わっている「甘え性」みたいなものを否定することはどうしても出来ない。相手への予期、期待とその不確実性がまったくない会話などというものはありえないからだ。そしてさらに議論を進めるならば、全ての甘えが悪いということではないはずなのである。甘えということは、考え始めると凄く難しい。恋愛における甘えとか。この乞局の公演は、その辺の個人的な記憶とかを相対化してくれる、よい演劇であった。ちなみに念のために断っておくが「甘えの構造」で言われてるみたいな話をしたいのではない。