五反田団『さようなら僕の小さな名声』(作・演出:前田司郎、こまばアゴラ劇場)

を観に行った。大好きな五反田団は相変わらず夢のような感じが素晴らしい。よくよく考えてみると、夢をあそこまで夢らしく描けるというのは本当に才能だ。夢ということとリアリティということについて同時に考えさせられるが、まずはあの夢のような感じに浸って楽しむべきである。しかる後に帰りの電車などで夢独特のあの統語論などについて思いを巡らすとよい(意味論はとりあえず投げておくとよい)。そう、くどいようだが、本当に魅力的なのはあの夢のような感じであるはずなのに、不条理系コメディとして受容されて爆笑が巻き起こっていたのはいささか不愉快であった。まぁ確かに可笑しみという点でもかなり抜きん出た作品であって凄く笑えるとは思うのだが、いかんせんせりふが一部聞こえない。一部役者がかんで客が笑って役者もつられて笑っちゃってぐだぐだ。なんじゃそりゃ!もう少し細やかな受容をしたい。また類型の話だが、小賢しい大学生みたいな奴らはとにかく声を上げて笑ったりする。笑うな!笑ってもいいけど途中で気付け、っていうかその笑い方じゃないだろ。ここはさ。違うでしょ。そんなに分かってるアピールしなくてもいいよっていうかするなむかつくから。などと観劇中に思ったわけではないが(素晴らしい作品だったので)、でも思い返すと、このように思うので仕方ない。彼らに笑うなって言ったら分かってもらえるだろうか。おそらくは分かったようなふりくらいはしてくれるだろうし、あまつさえ「そんな風に言ってくれる人はわたしの周りにはいないのですごくありがたいと思います」などと言っていただけるかもしれないし本当にそれはファックだ。「いつものお説教」だと思うのも「ありがたい助言」だと思うのも、無害化する囲い込みとしてのカテゴライズをしているという意味では変わらず、本当に、甘ったれないでください。言語でコミュニケーションすることはもとより皮下注射とは違うから(というかそうだったらイヤだ)、ある程度までは仕方がないにしても、それにしてもそれは本当に分かったフリというものだ。まぁいい。フリをしていなさい。それでもぎりぎり、言語的なコミュニケーションは不可能ではないと思うのだ。と思う、というか、そのような意志、である。ここ半年くらいはそういう構造的な不可能性ばかり目に付いて本当にいらいらする。