『粟谷能の会』(国立能楽堂)

に行った。と、これを書いている10/12朝、アサヒドットコムで菊生先生の訃報に接する。もちろん直接の知人ではないし、あまつさえ舞台も一度も拝見していない。しかし、書きにくくなってしまったのである。とにかく、番組は、粟谷明生「江口」、野村萬「呼声」、粟谷能生「道成寺」。観ていて、囃子方の奏する楽の音が、シテのからだから発せられているように思われてきて、そうなってくるとまったく眠気を覚えない。おそらく、謡いあり囃子方ありシテあり、という分節化自体が、認知、における大きな陥穽そのものなのである。ふっと、漫画における効果音とは一体何なのか(絵なのか文字なのか、我々はあれを読んでいるのかいないのか、それは頭の中の音読か黙読か、あるいは頭のなかで当該の音が鳴っているのかいないのか)、というトピックに思いを馳せた。現時点での自分の能のイメージは、ひとコマの中にシテが立っていて、余白に「いよー」とか「カン」とか「はなもゆきも」とか描いてある(写植でなく)漫画の連続である。写真は大鼓の亀井広忠先生。