蜷川実花監督,2007,『さくらん』(原作:安野モヨコ,音楽:椎名林檎,出演:土屋アンナ・安藤政信ほか,日本,カラー)

を観に行った.新宿ジョイシネマ.この映画は自分のためにあるのではないかと思ってしまうほど,一般的に評価すべきかどうかは置いておいて自分としてはたまらん感じだった.とは言えまぁ椎名林檎がどかんと鳴ればほとんど何でも良いのかも知れないので,そんなことはどうでもよくて,むしろ,松井みどりが文章を書いていたのでパンフレットを買った.松井みどりは最近「マイクロポップ」をひっさげてぶいぶい言わせている(桜井圭介,佐々木敦とナディフ本店で鼎談というしょうもない,結構行きたいけど死ぬほど行きたくないイベントもある).で,そのことについて最近考えていたのは,松井みどりが言う意味での「マイクロポップ」は,「大きな物語」に対置されるところの「小さな物語」という程度のことまでが含まれる.「小さな物語」という程度のことまで,とは具体的には「ガーリー」や「オタク」などのレベルの話になるのだが,と,さっさと結論を言ってしまえば,思うに,それではまだ物語としては大きすぎる.『20世紀美術探検』展の田中功起も,ピタゴラスイッチも,もっとずっと小さな物語によって現在に存在している,と分析する.ここでさしあたってそれを「微少な物語」と名付ける.具体的には,くちゃっとなったストローの袋に水を垂らすとくねくね動いたり,あるいは金魚にえさをやろうとすると水面近くまで口を近づけてきたり,あるいは紅茶にマドレーヌ,というようなことだ.「物語」を内的に一貫した因果連関と捉えるならば,「微少な物語」とはその因果連関のアトミックなあり方であり,(おそらくは)それ以上の分割をかたくなに拒む(いがらしみきおぼのぼの』にもこういう話があった.「こうすると,こうなる.」っていう,最小単位の感じだ).最近の「デザイン」への興味をこの観点から捉え直すと,「デザイン」こそが「微少な物語」そのものであると言うことも出来る.最高度にシンプルで完成された「微少な物語」こそが「デザイン」なのである(デザイン家具や,デザインケータイを思い浮かべてみればいい).この最微少性はドゥルーズの『シネマ2 時間イメージ』における「結晶イメージ」の概念を想起させる.ドゥルーズの「結晶イメージ」同様,「微少な物語」において喫驚を避けがたい点は,その強度である.ダイヤモンドは砕けない.のだ.「マイクロポップ」という概念はあっぱれであるが,微少性という観点からは,「ガーリー」みたいなものは含めない方がよかったのではないかと思うのだった.