Goethe, J.W., 1787, Die Leiden des jungen Werthers .(=1951,竹山道雄訳『若きウェルテルの悩み』岩波書店)

読了。ゆえあって二度目。ふーむ。なんだか説明くさいという気がしなくもない。「わーなんで自殺とかすんの馬鹿じゃん」と(ゲーテが)言われないための説明くささである。あと面白かったのはウェルテルが「食事ものどを通らない」とか「夜も眠れない」とかいう状態にならないところだ。そういうかたちでの苦悩の仕方が十分に定型化されていなかったのだろう。そういう、抑圧されあふれ出した心理が身体に表れるという身体・無意識モデルというかたちでのアピールの仕方、パフォーマンスの仕方、あるいは助けを求める仕方が、20世紀以降ではまったく常態である。20世紀のなかばまではそれでも極端な心理状態の結果として起こっていたはずの出来事が、20世紀後半に入ってまったく普通の出来事になった。そして21世紀に失われつつあるのが、漠然と「意識-無意識-身体」というモデルで捉えられてきたかたちでの自我、である。そのようなモデルの自我こそが不眠症になるのであって、そのような自我が失われるということは、「フロイト以前」という時代としての19世紀以前に強制送還されていると言ってもいい。さらに言い換えれば、21世紀に台頭してくる人間類型は、「意識-無意識-身体」モデルがいかに嘘っぱちかということがよく分かっているのだ。だからこそ、悩みすぎてご飯が食べられなくなることもないし、逆にセックスと精神の解放が結びついたりもしないのだ。北田暁大ロマン主義シニシズムとして定式化したことそのこと自体には議論の余地があるだろうが、少なくともロマン主義シニシズムが適合的であるという一見逆説的でいてまぁそんなことみんな分かってるよ今の子どもたちはという点は重要であると言っておく一応。もうすでにかなり偽悪調で書いているがさらに偽悪の上塗り、21世紀のはじめに、並外れてナイーヴに見える一群の人間がいるとすれば、彼ら彼女らこそが、意識なき、無意識なき、身体なき自我なのである。