島田雅彦,1995,『彼岸先生』新潮社.

読了.面白かった.全然いらいらしたりしなかった.むしろ面白かった.自分よりダメなやつがいるぞ!(そしてそのダメさはよく分かるぞ!)という面白さは,文学の面白さのかなり主要な部分だろうと思うが,自分よりダメというのは,自分と同じ種類のダメさということでもある.同じ部分も違う部分もあるから,逆に自分のダメさを分節化して,よりよく理解することも出来るというものである.

一杯のお茶を飲みながら,私たちはお互いのことを理解し,共感し合いながら,二人のあいだにどのような関係を築くことができるか模索するのです.はっきりとした答えはでないかも知れません.私たちはお互いに理解も共感もし合えないと悟るかも知れません.それでもいいんです.私たちは少なくとも,同じポットのお湯を飲んだ仲にはなれました.ともかく,二人の関係は始まったといえるでしょう,そして,その関係をもう少し違った雰囲気の中に置いてみたらどうなるか.それを試すために蒲団が敷いてあるのです.(323)

ドン・ファン光源氏の対照は興味深い.一夜限りのドン・ファンと,何だかだらだらと続く光源氏.それにしても,蓮實重彦が解説で書いているようにラストを読むのだとすると(そう読まない余地もいくらか残っていると思うが),裏表紙にある「こころ」としてよりは,むしろ「ゴリオ爺さん」ではないかと思う.読後感が,主人公菊人=ラスティニャックとなって,苦渋を下敷きにした爽快さだ.「ゴリオ爺さん」のラストは,フリードリヒの「雲海を見下ろす旅人」(みたいなタイトル,うろ覚え)という頭の中の挿絵と共に思い出されるから,もしかするとフリードリヒの影響の方が支配的なのかも知れないが.
追記(2008/11/25):響子さんが哲学科出身であるのは8 1/2と同じ.(「哲学科の女子大生」は「インテリ」男子の目にどう映るか?=すぐに「愚かな」現在のガールフレンドが登場して,対比は驚くほど鮮明)