『国宝薬師寺展』(東京国立博物館平成館)

に行った.凄い混雑.人でいっぱいの駅のホームのような館内を歩きながら,「インスタレーション」とか,あるいは「デペイズマン」とかっていうのは辞書ではどういう意味だったか,考えていた.辞書の上での意味が,ある方向に延長され,種々の含意を持たされて,百科事典上の概念としての意味を獲得する過程は,同時に,辞書の上での意味が漂白されることと軌を一にすることがある.それは概念のレベルに限らず,接尾辞や接頭辞の付加によって別の品詞になるというだけの過程においても同様のことが起きるのであって,つまりはinstallationという語の内部にも蓄積された歴史である.とまれ,この展覧会において,展示方法は極めて重要であり,展示空間自体がひとつの作品としての性質を帯びるに至っていると言うことも出来るだろうほどにその重要性は際だっていた.言ってみれば,キッチュでありディズニーランド的であり見せ物的であり,お望みとあれば博覧会的であるとも言えるだろう,あの観覧の空間は,翻って,「現代において仏像と対峙する」という営為を可能にしていた.あの過剰さによって,仏像ってこうやって観るべきものなのか?という問いが開かれるだろうことを,考えた.とは言え,造形としての完璧さもまたちゃんと観られる展示であり,仏像の見方が少し分かった.