ポツドール『顔よ』(脚本・演出:三浦大輔,本多劇場)

を観に行った.開演してすぐ,舞台美術が,いつもより間が抜けていることに観客は気づくだろう.書き割りのようであることを狙ったようであり,従来のポツドール作品(再演『激情』まで.『人間失格』では既に今回の傾向の萌芽が見られる)のように,偏執狂的にリアルを追求する美術ではない.それは「奥さん」の衣裳にしても同じであり,エプロンをして表通りを掃除することなど,何かの冗談なのかと思いそうにもなるが,しかしこれは冗談などではなく,すべて,この作品が寓話であることのインデックスである.もちろん,これだけではインデックスとしては弱いのだが,作品の最初から強いインデックスを持ってきてしまうことは得策ではないから,最後の場面で「現実」を持ってくることによってそれまでの劇が寓話であったことを表示するのは合理的である.とは言えこの最後の場の「現実」とは,ポツドールがかつて(かなり昔,『騎士クラブ』などの頃に)標榜していたような「リアル」とは別のものであることには注意しなければならない.かつての「リアル」とは,真正性autheniticityや唯一性,至高supremeであることなどの価値と結びついたレトリックであるのに対して,今回の「現実」とは,陳腐さや日常性mundanity,反復性などと結びついたレトリックとして捉えられるべきものだからである.過去の三浦大輔にしろ岡田利規にしろ,無批判に反復されるクリシェのように陳腐な演技,演劇を拒絶して,一回性や真正性と結びついた感情の表現であるところの「リアル」を求めていたのが,近年は両者とも,真実真正である「リアル」の中にも当然存在する反復性や陳腐さを,極めて自覚的に舞台に載せるようになっている.真正性を追求していくとすれば,その中の「現実」である典型性や類型性にもまた,必然的にたどり着くのである(『ANIMAL』以降のポツドールでは特に典型や類型への着目が顕著であることにも注意).その,一つ突き抜けた先にあるのは,チェルフィッチュの『フリータイム』にしろ『顔よ』にしろ,普遍性としての寓話であり,がむしゃらな「リアル」にはなかった,一段高い,抽象化された真実性を獲得することに他ならない.抽象化された真実性とは,「もっともだが陳腐でもありしかし正しい」ことであるから,それは寓話という体裁や洗練された劇作法によってオブラートをかけられなければ,ありきたりでとてもじゃないが見ていられないものになるし,逆から言えば,むき出しではありきたりで見ていられないものを,見ていられるものにする,というのは,これは寓話ということを超えて,ひとつの形式formの獲得に他ならないから,(それがどこかで破壊される運命にある形式であるとしても)これらの動向をして演劇というジャンルの現在の豊穣さや目を離せない才能の爆発として語ったところで問題はなかろう.その方向性は,奇しくもかつて前田司郎がいたところ(『キャベツの類』など)やタニノクロウ(特に『笑顔の砦』を想起されたい)の方に向いており,当の前田司郎はと言えば,彼はフォルムを洗練させるのではなくフォルムから転落して,そのかつてはプルーストのようであった魅力を,みるみる失っているように思われる.