Flaubert, G., 1857, Madame Bovary.(=伊吹武彦訳,1939,『ボヴァリー夫人 下』岩波書店)

読了した.画像は「ボヴァリー夫人を解剖するフロベール」という漫画.しかし言うまでもないことではあるだろうが言っておくがフロベールボヴァリー夫人を決して解剖などしていないのであって,それはもう少し悲痛な寄り添い方をしていると見るべきであろう.ボヴァリー夫人は,一時的に恋愛によって救われ,また最後までは救われないのだが,それを求める姿勢は天衣無縫の純粋さであって,フロベールが注意深く織り込んでいる小賢しい策略や演技や,自家撞着や欺瞞や偽善を考慮に入れても,その無垢で天真爛漫なロマンチシズムは,いささかも損じられることはないのである.ロマンチシズムと書いてしまえばそれは小賢しい連中には否定的な意味で「感傷的」とか「自己憐憫」とかいう偏見を持たれるだろうが,しかし,ロマンチシズムは,信仰でありまた他者を求めようとする愛であり,しかもボヴァリー夫人が心の底からそれを求めていることは疑いのないことである.自分が他人を利用して救われようとすることを彼女はいとわないのであるが,そこに疑問も持たないし,妙な罪悪感も持たないのである.「それは単なる自己満足ではないか?」などという(現代においては)使い古された瞞着に振り回されることはない.ただ真実心の底から他者を求めることに,美しさや救いはないので,この小説もまた救われずに終わるが,それは恋愛が手段ではなくて目的であるからである.結婚してめでたしめでたしになるおとぎ話の類は,それは幸福のための恋愛であって,手段に過ぎないが,現実に行われることは常に目的としての恋愛であることは,当人たちの意識や他者からの評価とは無関係である.当事者が「単に寂しさを紛らわせるためだけに恋愛のふりをしてしまった」とか,「彼のことが好きだったのではなく,彼の恋人であるという自分が好きだったのだ」などといくら思ってみたところで,それは単なる後付のレトリックであって,ボヴァリー夫人はそのようなレトリックを非常に鮮やかに引き剥がした存在として,ただ素晴らしい.現実において,本人が認めようが認めまいが,恋愛は常に目的として行われており,今までもわれわれはそのように恋をしてきたし,またこれからもそのように恋をするだろう.