『愛しあう FAIRE L'AMOUR』(原作:ジャン=フィリップ・トゥーサン,演出・脚本・映像・振付・衣装:ヴェロニク・ケイ,出演:ピエール・ミニャール/康本雅子,音楽:フレデリック・ミニエール,横浜赤レンガ倉庫)

を観に行った.もちろん康本雅子を観に行ったのだが,やれやれだぜ,って感じだ.ドアタマで康本雅子が舞台に入ってきてそのまま倒れ込むのだが,その倒れ込む様があまりに素晴らしくて,この人のからだはなんて素晴らしいのだろう,と再確認した(そう言えば,ダンサーの「からだ」について何とはなしに弟に話していたら,またそんなこと言ってこの愚兄は本当に終わってるな,みたいな反応をされた.誤解だ.シンタイとか身体性とか言うのを躊躇って,つい「からだ」とか言って,まぁでも結局恥ずかしさはあまり軽減されてないな.).再確認した,再確認したものの,この作品で康本雅子は全然踊らない.ひどい!そして,舞台作品としての残りの部分も,余すところなくひどかったので,もはやそれはいい.それよりも気になったのは原作と演出双方の恋愛観がひどくナイーヴなものに思われたことだ.それはデプレシャンの『そして僕は恋をする』でも感じたことで,大丈夫かフランス.と,「フランス」というカテゴリー化はまぁ不適切だとはわかっているが,それにしても,大丈夫か.で,実は,恋愛観がナイーヴと言うのは,全然問題ないというか,その場その場でナイーヴな恋愛観しか持つことしかできないわけで,恋愛観がナイーヴとか言うのは恋愛観観がナイーヴなのだな.そのようなむき出しの体験としてあればよいと思う,というロマンチシズム.そして,世界観や恋愛観がナイーヴであったりするのはもう全然実は問題でも何でもないというもう一つの理由があって,要するに,作品としての結構が問題なわけだ.だとすると,自分が「うわー,日本まで来て何やってんだこの人たちは」と思ってしまったその感覚というのは,ナイーヴな恋愛観,という言語化では全くもって不完全であって,もっと具体的なテクニックやスタイルの問題になってくるのだろう.スタンドマイクにすがりついて「マリー!マリー!」ってシャウト!するとかそういう具体的なところに突っ込まなくてはならないのだろうが,あそこまでひどいとどう突っ込んだものやらわからん.