劇団地上3mm『砂の女』(原作:安部公房,構成・演出:川口典成,王子小劇場)

を観に行った。それで、よく分からなかったのだった。よく言われる言い方で言えば、「何がしたいのか」分からなかったのである。もちろん、この「何がしたいのか」というのは信じがたい安直な視点なのである。なぜなら、何かしたいことのある人がそれを自覚した上で実行に移す、という、あまりにナイーブな図式にコミットしているからだ。動機と行為ということに関してあまりに日常的な推論形式であるこの「何がしたいのか」という視点は、日常的であるが故に安易である。とまぁさんざん留保をつけたが、しかし実はこのことは安易とばかりも言っていられない。なぜなら、「行為を理解する」ということと「動機を理解する」ということの関係はちょっと想像を超える入り組み方をしているからだ。それは行為の叙述に関わる問題で、例えば「彼は私を呼んだ」のか「彼はタクシーを停めた」のか、通りの向かい側から手を挙げている「彼」を見た「私」には判然としないことがある。まぁ理由は簡単と言えば簡単で、「行為」概念の中に「動機」の概念がすでに織り込まれているから、と言ってしまえばそれまでなのである。あぁそれでつまり何が言いたいのかというと、作品理解にとってもやはり「動機」や「目的」の理解というのは重要な一角を占めるのである。そればかりやっていると非常に一面的で目的論的な見方しか出来なくなるからそれは論外だけれど、それにしたってやはり「何がしたいのか」というのは外せないのだ。それで、この『砂の女』は、「何がしたいのか」分からなかった。それはおそらく、作品から劇的な印象を受けなかったということと無関係ではないはずだが、不在であった物事について語るのは難しいな。