ホウ・シャオシェン監督,2003,『珈琲時光』(出演:一青窈 / 浅野忠信 / 萩原聖人 / 余貴美子 / 小林稔侍ほか、日本、カラー)

を観た。DVDで。一青窈の名前と顔を初めて一致させて、あら、なかなか、と思い、ゼミの後輩に感じのよく似た子がいたけれど名前が思い出せねーやははははは、あーかなしい、と、しかしそれにしても途中からまた怒りがこみ上げてきて、特に一青窈が喫茶店の主人にものを尋ねるために「マスター」とか呼ぶシーンは、いかにもリアルな、なれなれしい甘ったれた女の子よ!と思ってもう本当にいたたまれず、そろそろ何に対して怒っているのかもよく分からなくなってきた。もう実はというかありきたりな感じでミソジニーとかいうことを考えたりもするが、まぁそんなことはなくて、というかそれは永遠に表に出ないままで、もうこれは愛だ。そういうことにしよう。よくよく考えると自分の取っている態度は30年前のうるさ型フェミニストとすごくよく似ていて、結局、ヘイ、ガールズ、そんなことでどうする!って感じで、それはとてもどうかと思うのである。女の子の甘ったれは、構造的な男女の非対称を(無自覚に)逆手に取ったしたたかな戦略であるので、そんなもん逆手に取ってんじゃねーよ、ちゃんと(自覚を持って)礼儀正しく誇り高く真面目に生きてみろこんちくしょー、と思ってみても、その無自覚と自覚というか覚醒というかの対立の果てに、つまり自覚の果てにあるのは、やはり結局は構造的な非対称性なので、まぁそういうどうしようもない状況をきちんと見つめなさい、などというどうしようもない結論になる。じゃあその無自覚な戦略としてのガーリーさを是認できるかと言うと、そんなものを見せ付けられた日には、種々の抑圧や虐待を受けてヒステリーや解離性同一性障害を起こしたりしている人を目の当たりにしているようで、居ても立ってもいられない。このように考えてしまう自分の考え方の問題点は、あからさまな精神のフロイトモデルと、もうひとつは構造決定論的な被害者論だ。つまり、半分以上は、考えたり悩んだりしても仕方がない領域に突入してしまっているのであって、これはもう愛だ。映画の中に出てくる絵本はモーリス・センダックのもので、このセンダックの「かいじゅうたちのいるところ」という絵本は、絵本のなかではもっとも好きなもののひとつであり、好きな絵本のこととかを思うと、ちょっと慰められるのは自分だけではあるまい。ウェルテルも「ほしいのは子守唄だ」と言っている。でもそれは世の中に疲れ果て傷ついたからと言うよりは、「この胸はそれだけで充分に湧きかえっている」からだ。