『世界のCMフェスティバル2006 IN TOKYO』(新宿ミラノ1)

に行った。オールナイトで世界のCM500本を観る。そして振舞い酒を飲む。観る。寝る。飲む。観る。寝る。寝る。そして午前6時、歌舞伎町の深更たるところの朝ぼらけのなか帰途につく。終わってみれば、インデックスなしで思い出せる記憶がほとんどないことに気付くが、まぁそれでよい。Adidasの"Impossible is nothing"シリーズが大変よろしく、他にも素晴らしいCMが沢山あった。気がする。説教くさいものが多いのはご愛嬌だ。大変祝祭性が強いイベントであったが、あまり手をかけずに上手に作ってあるので好感が持てる。人為見え見えわざとらしさ満々というところからは遠い感じであった。それは多分、拍手をする、という行為の含意によるところが大きい。カタルシスの結果拍手をするのではなく、拍手がカタルシスそのものであるということがある(うすた京介短編集『チクサクコール』所収の「もうちょっと右だったらストライク!!」を読むとよく分かる)。それは、何かを肯定し、評価することの快感である。その快感には、肯定する対象の性質(「美しい」とか「善い」とかそういう自分が受けた好印象)は関係なく、ただその肯定するという行為こそが気持がいいのだ。何かを肯定するという行為は、自分のセンスのよさ、懐の深さ、鷹揚さ、寛大さの発露であり、そこに計算高さが見えたりしないかぎりは、凄く良い人になれる時間だ。これこそが褒めたがる心性である。このCMフェスティバルでは「パチパチ」と呼ばれるプラスチック製の拍手装置が配られ、面白くてもつまらなくてもどんなときでもとにかくこれを鳴らす。CMに音楽が使われていればこれに合わせて鳴らす。3秒にひとりの割合で子どもが貧困で死んでいることを、3秒に一度指をぱちっと鳴らすことによって表しているCMでは、その指を鳴らすのに合わせて鳴らす(タイミングがずれて笑いが起こったりして、これにはさすがに驚いたが、なんだ、わりと頭の中に混乱を来たすようなエピソードだ)。人が手を叩いてする拍手は、意外と微細なニュアンスをつけられるものだが、この「パチパチ」からはそういったニュアンスは剥奪されている。むしろからっと乾いた明るい音がするので、常に明るいニュアンスが張り付いていると言ってもよい。つまりは、そういうことだ。