新国立劇場・SPAC共同制作『シラノ・ド・ベルジュラック』(原作:エドモン・ロスタン、構成・演出:鈴木忠志、新国立劇場中劇場)

を観に行った。なんだこれは、三条会ク・ナウカじゃないか。と思わないでもないせりふ術。というかせりふ法というか。言語に負荷をかける。何のために。異化。と言うだけでは網目が粗すぎる。この戯曲が詩というものに対して置いているアクセントのために。そして椿姫だ。全編にわたってほとんど椿姫しか流れないが、合唱が多く、一幕のアリアが少し、何より前奏曲が三回くらい。しかしこれらは劇中において間奏曲的に使われて(元は間奏曲ではないが)、純粋に演劇に奉仕する存在と化している。バレエにおけるディヴェルティスマンやオペラにおけるインテルメッツォ(と昔は呼ばれていた部分)に当たるものが演劇において存在しないのは、演劇がそのようなかたちで見せびらかすだけの専門化した技術を備えていないからであり、しかしよく考えてみればそれは不思議なことである。思いつくかぎり演劇におけるディヴェルティスマンは劇団地上3mm『私の副流煙を吸って』の宇宙人のくだりだけだ。演劇と音楽は、お互いがお互いに対して圧倒的に強力である。しかし今回は完全に音楽が組み敷かれ、隷属させられている。椿姫には個人的に心理的な固着があるのでなんとも言えないところもあるが、それを差し引いて考えても、やはり劇的なカタルシスがあって、それが何だったのかと考える。よい演劇であったと思う。