ナンシー関,1998,『何をいまさら』角川文庫

読了。感心しきりであるのはいつものことだとしても、「容姿の余力」概念には本当にうならされた。「容姿の余力」のない人間が無茶なことをすると(たとえばカメラの角度が悪いとか)すぐにぼろが出るぞという話である。それで本当に感服したのは、蛯原友里の例のことを説明する能力を具えた概念だと思ったからだ。例のこと、とは言うまでもなく「テレビに出たらぱっとしなかったエビちゃん(出ない方が良かったんじゃないか)」事件のことである。この事件、さしあたってエビ某重大事件と呼ぶことにする、このエビ某重大事件に対する世間の風評は、喋りが下手とか頭が悪いとかとにかくその類のものであったはずだ。まぁそもそもエビ某重大事件自体が風評なのだがそれを言ったらみもふたもない。とにかく、喋りや頭など関係ない。単に彼女には「容姿の余力」がなかったのである。ナンシー関の言葉を借りれば、「あの人は、ギリギリのかつかつであそこまでの人なのだ」。ちなみに容姿の余力というのは何もテレビや有名人に限った話ではない気もする(と発言する、のには慎重を期さねばならない)。男女の別なく(と一応言っておく)、現実に容姿の余力がない人というのはいて、まぁそれだけ頑張っているということなのかも知れないが、破顔一笑で本当に顔が破れたりする。そしてそれを自覚している人がいて、笑いも悲しみも全て表情をコントロールする、もしくは幼少時にコントロールされた表情のみが現在でも表出しうるという状態である。逆の自覚もあって、最初から頑張らないことで容姿の余力を残しておく戦略もありうる。前者は「笑ってもかわいい」型、後者は「笑うとかわいい」型と名づける。これはあくまで類型論であって云々以下略である。