チェルフィッチュ『目的地』(作・演出:岡田利規、こまばアゴラ劇場)

の録画(NHK教育の芸術劇場で放映されたもの)を観た。舞台で観たものをビデオでもう一度観るというのはおそらく初めての体験だったのだが、あまりに違う(当然だ)。しかしその違い方というのが面白くて、何だかビデオの方がやけに生々しかった。録画されたものをブラウン管で観る、という方法の異化であると考えれば、決して理解しがたいことではないが、なまの現前性のようなものを売りにしている演劇というメディアからすれば、この様な現象はちょっと無視できないことではないか。しかしビデオで観ると衣裳や動きのディテイルまでよく見えてよい。舞台で観たときは全く注意を払っていなかった人にカメラが向いていたりとか、実はビデオはとても面白い。字幕に対して言及することでフィクションのレベルが揺らぐところなどもビデオで観ると非常にあからさまな感じで、逆に言うと舞台を観ているときにいかに様々なことが「自然なもの」として捨象されているかということが分かる。さて、この芸術劇場という番組では岩松了による岡田利規のインタビューが収録されていて、これが非常に大きな収穫だった。特に、岡田利規がテープ起こしのアルバイトで着想を得たことと、間接話法についてフォークナーに言及していたこと。テープ起こしについては、本当にさもありなんという感じで、もし岡田利規が会話分析Conversation Analysisの論文を読んだら何と言うだろうか。やはり自分がチェルフィッチュに強い衝撃を受けて、同時に親近感を覚えた事は、単なる気の迷いではなかったようだ。そしてフォークナー。間接話法と直接話法(伝聞と地の文)の境界が溶解していること(境界を溶解させていること)についてはチェルフィッチュにおけるリアリティ戦略の一つくらいにしか考えていなかった(もちろん最重要戦略の一つではあるが)のだが、それがフォークナーの手法、つまり噂が物語の語り手であり、噂が亡霊のように主体性を持って人々に何かを言いふらしているかのような、そのようなトポスでのリアリズムの手法との同型性については全く気付かなかった。小説の世界では既に何十年も昔にやられていたことに、戯曲がようやく追いついたのか。いや、もちろんそんな単純なことを信じているわけではないけれど、良い話を聞いた。