ヘミングウェイ 2003『日はまた昇る』(高見浩訳)新潮文庫

読了。1926年の作品。ブレットのような、ロスト・ジェネレーションにおける性的に奔放な女性のことはflappaerというらしい。ちなみにロスト・ジェネレーションというのはガートルード・スタインの発言"une generation perdu"の直訳であるとの事。perdreという動詞には「堕落させる」、などの意味も含まれることを考えると、「失われた世代」というよりは「自堕落な世代」「だらしない世代」ぐらいのほうがスタインの意図には合っているのではないか、という内容のあとがきは大変興味深かった。それにしても、非常な現代性を感じるのと同時に、現代と何かが違うという感覚があり、さらにはその違和感は一向に定式化出来そうにない。仮説としては、「振舞っている」というレベルでの共通性が同時代感を醸成する一方で、具体的に「どう振舞うか」のレベルでは決してコンテンポラリーではない、といった所だろうか。個人的な心情としては、自暴自棄な女の子ほど悲哀の感情を呼び起こす存在はない。前もどこかに書いたけれど、その自暴自棄である状態というのは、社会的、構造的な要因とともに、やはりどこかしら本人に帰責(法律用語だがまあよしとしよう)されるべき部分、主意主義的な立場をとらなければならない部分がある(部分とか言ってる時点で既に主義でもなんでもないが)、と考えたい。おそらくこの様な全体的な構造分析をすることなしに、彼女たちの何かに影響を及ぼすことなどできないのだろう(ただし何もしなくても彼女たちは変化していく)。分析の契機としては小説、演劇をはじめとする表象文化一般にとりあえず信頼を置くことにする。とにかく、愛だけでは、どうにもならないことがある。