阪本順治監督,2008,『闇の子供たち』(原作:梁石日,出演:江口洋介・宮崎あおい・妻夫木聡・佐藤浩市ほか,日本,カラー)

を観に行った.新宿ミラノ3.インターネットで検索してみると,この映画については何だかちょっと議論みがいなことがあったようだが,まぁ,よくない映画だった.深刻な話というのは難しい.個人的に深刻な話を誰かに打ちあける場合でも,下手をすればそれはその深刻さに対してダメージを与えるだろう.被害者のいる話ならなおさらだ.例えば誰かが亡くなったというような話をするときには,気をつけなければ,その死んだひとに対して申し訳ないような話し方に,つい,なってしまうだろう.意図しようがしまいが,打ちあけ話は親密性の資源である.そうやって資源として機能してしまうことが,いやらしくまた利己的に思われ,そしてせっかくの深刻な話の深刻性を損ねそうに思われる.だいいち,そんな話をする必要がどこにあるのか?その話によってもたらされる効果というのは,そうやって話をする以外にも達成できるんじゃあないのか?だとしたら,どうしてそうやって物語のようにして話してしまうのか.物語には落とし穴がたくさんある(言語そのものにもまぁ,たくさんある).事実だけを報告するようにするにしても,それもまた事実を報告するという言説の型に(つまりレトリックに)成形された内容になり,そのような決まり切った形式にはそれに対応する決まり切った効果というものがつきまとうのである.かといって全く独自の言説などを紡ぎ出そうとはとてもではないが考えられない.せいぜいダメージの少ないレトリックを選択するくらいが関の山である.そこで,しかし,深刻なことを共有したい気持ちが失われるわけではない.なぜならそれは重要なことだからである.重要性は自分が決めることではなく,他者との関係,特に,重要な他者,一般化された他者との関係によって決まる.そもそもが,重要性の算定・認識そのものが,コミュニケーションを志向している.自分にとって深刻なことは,いつかどうやってか,重要な他者(「あの人」)あるいは一般的な他者(みんな)と共有したいのである.だからこそコミュニケーションに消極的な人は,算定・認識した重要性そのものをかえって放棄してしまうのである(「あれは大したことではなかった」).そして何かを「受け入れた」気になって「前へ」進んでいく.