Johann Wolfgang von Goethe, 1833, Faust.(=相良守峯訳,1958,『ファウスト 第一部』岩波書店.)

読了.第一部最後の場面,マルガレーテの狂乱は本当に本当に胸を打つ.何を書いて何を書かないかということについて,取捨選択の仕方がものすごい.いつの間にか物狂いの態になっていることの効果は大きい.ちなみにマルガレーテをグレートヒェンとも呼ぶ,この「ヒェン」の部分は中国語にすると「小」であり,人名について言えばこれは日本語の「ちゃん」のように働いて愛称を作る接尾辞である(もちろんメルヒェンなどのように人名以外にも使う).英語で「リトル」と言ったりするのをどれくらい実際に使うのかはよく知らないが(ついでに書けばフランス語の「プチ」を,「アミ」の前に付ければ「恋人」の意になるのは愉快だ),ファウスト自身はマルガレーテに対して呼びかけるときグレートヒェンの呼称を用いている.ちなみにマルガレーテがファウストを呼ぶときは訳文では「ハインリヒさん」となっていて,Herrをファーストネームにつけて使っていることになる(原文未確認だけど).最後の場面においても呼称はそれぞれグレートヒェンとハインリヒさんのままで,しかしそう言えば,名前などというものは実際どう呼んだものか途方に暮れる代物である.特に恋人たちには二種類あって,それはつまり名前を呼び合うのとそうでないのということだが,ファウストたちは前者に当たる(もちろん二人称との併用がなされる).思えば二人称で呼んだ記憶は思い返すとちょっとばかり味気なく,名前で呼ばれた記憶といえばこれは良いものである.この選択は決して任意ではない.名前でいつでも呼べるわけではないのである.だからこそ,『宗教が往く』において松尾スズキが恋人に「松尾ちゃん」と呼ばれていたことは,これもまた思い返すと胸が熱くなる.