『9月文楽公演』(国立劇場小劇場)

に行った.第2部,『奥州安達原』.親子の話が重なるため,母と一緒に観てちょっと照れくさかったが,とはいえ安達ヶ原の鬼女と(実は)その娘である恋絹の話はそんなことを言っている場合でもない.それ自体が一大スペクタクルとなる場面転換の直後に皆で大見得を切って切りとなり,そのカタルシスはまぁ言うまでもないにしても,それにしても,恋絹が身ごもっている子どももろとも殺されようとするその直前に頼み込むのは,恋人である生駒之助にひと目会いたいということでありこれには感じ入った.

「どうぞお慈悲に連れ合ひの帰られるまで,せめて名残にたつたひと目,逢ふて死にたい,顔見たい,生駒様いなう,わしや今斬られて死ぬわいの,わが夫なう」

というのが最後の言葉となる恋絹より先に,ひとりの旅人が殺されるときにはその誇張された表現に客席から笑いもおこるが,「目も当てられない」(と義太夫が自分で言ってしまう)この凄惨な場面ではただ息を呑むばかりである.生駒之助は恋絹の死骸を見つけ,

「南無三宝
と気は半乱,門の戸踏み明け駆け入つて
「ヤレ女房,何者が手に掛けしぞ,恋絹やい」
と云ふ甲斐さらに亡骸を抱き上げて立つたり居たり
「エヽ遅かりし,残念々々,さぞ我を待ちつらん,可哀の者や,いぢらしや」

と涙に暮れる.ここで恋絹がいじらしいのは当然として,「さぞ我を待ちつらん」となる生駒之助もまたいじらしい.相手のことをこのように慮ることにこそ涙を絞る力があるのは,この2人の共在関係(まさに理想的な相愛,融通無碍な意思疎通)を背景に透かし見ながら,しかし現前しているのはその当の相手の非情な不在であることが,かつて恋人と想いを交わし合ったことを反芻しながらその存在が傍らにないことを噛み締めるのに似ているからである.いまこの瞬間に呼んだら(あるいは万に一つ)帰ってくるかも知れないあの人を,絶対に二度とは帰らない死んだ恋人に重ねることによって,自己憐憫に対する全面的な許可が下ろされるのである.