フランシス・フォード・コッポラ監督,1974,『ゴッドファーザーPART II』(出演:アル・パチーノ/ロバート・デュヴァル/ロバート・デ・ニーロほか,音楽:ニーノ・ロータ,アメリカ,カラー)

を続けて観た.DVDで.久しぶりに観るとやはり違う視点が生まれるし,何よりこの映画は登場人物や話がちょっと複雑なので,一度目はよく分かっていなかった部分などがよく分かった.伏線とかそういうことではなく,人物名が覚えきれないので,次々と人が登場してくるように思っていた部分が,実は既に一度出てきていた人だったなんてことがあった.それにしても,怒りと復讐ということは,最近自分がとみに親しんでいる事柄であって,そのどちらもが,自分もやっていることだろうとか,どちらが先に仕掛けたなどということとは関係なく,正統なlegitimate権利義務関係からは遠く離れて無限に拡大された被害の意識から発生するのである.特に個人的には,蔑ろにされる,ということには我慢がならない.もちろん,蔑ろにされたという認識自体は,特定の権利義務関係から演繹されるはずの事柄だが,自分がそれを怒る権利があるのかどうかが不問に処されているのは,自分のことを棚に上げろ,という命法のなせる業である.「そうは言ったってあいつは俺にナメた真似をしやがった」というわけだ.それにしたって怒りに身を任せて復讐しようとするときの甘美さ(「義は我にあり」)と,それをし終えて振り返ったときの空白は,甚だしいものがある.空白はヒロイスティックな「むなしさ」からはかけ離れた,本当に何もない,その何もなさの認識のことだから,清潔な感じでもある.恋愛は往々にして復讐によって始まり復讐となって終わりもしようが,復讐が無化されてしまう時間もまたそこにはあるのである.