大友良英ニュージャズオーケストラ『楕円の誘惑』(浅草アサヒアートスクエア)

に行った.ONJOは2006年の9月にも同じ会場でライブをしている.その時は,まさにエモ音響真っ盛りの時期で,非常な音楽的感動があった.過剰に図式的な記述であることを断った上で書くが,2007年はエモ音響から離脱しようとしたONJOの試行錯誤の年であり,そして2008年はどこか違うところに落ち着いたようである.前半のマーティン・ブランドルマイヤー(dr),アクセル・ドゥナー(Trp),Sachiko M大友良英のカルテットは素晴らしい.特に,ブランドルマイヤーとドゥナーの理知的なプレイは,冷静さの中にある情熱や,整然とした企てに同居する猥雑さといった魅力を持っており,大変に素晴らしい.後半はこの2人のゲストとONJO.(区別できた限りでは)"Song For Che"から始まり,"Lost In The Rain"で終わり,アンコールに「見上げてごらん夜の星を」.前半のカルテットも後半のオーケストラも,中央で床に座る50人ほどの観客の周りをドーナツ状に演奏者が取り巻き,さらにその外側に椅子席が2列になって配置されているのだが,非常に優れたスピーカーシステムで,技術的にこの配置には全く問題なく,音楽的には極めて必然性の高い「インスタレーション」だった.曲目だけ見ると,エモの方向性のようにも思えるが,音楽としては全くエモの感動はなく,かといって音響でもないのであって,ひたすら,「良い音楽」というよりは「良い音」が追求されていた.「音」というと単独の音のようであるが,そうではなく,複合的な,「良い音像」とでも言うべきものである.どこまで行っても「きわめてよいふうけい」であるように,「きわめてよい音像」が連なるさまは,いわゆる「音響」と呼ばれた運動が(そんなものがあったとして,だが.ここでは,「音響」という運動として語られたもの,として操作的に使用),聴衆に対して音のマチエールの発見と音韻からの離脱を求めたのに対して,もうそんなことはどうでもよいと思わせてくれる.音韻から離脱しなくても,音響は汎的に,また不可避的に存在する.前半のカルテットは,特にその音響の手触りの良さと新しさがあり,素晴らしい演奏だった.それがオーケストラになると,まさに(ふうけいlandscapeで思い付いたが)soundscapeの様相を呈し,それが,きわめてよいsoundscapeなのである.つまり,大変に良いコンサートだった.しかしここまで来ると,これが音楽としての快楽なのかどうかがよく分からなくなってきて,つまるところ,これにお金を出すかどうか,という大きな問題になる.突飛な比喩かも知れないが,田中泯の踊りが何らドミナントモーションではなく,個々のシークエンスがどの瞬間を取っても視覚的で身体的な快楽であるのと同じように,ONJOのsoundscapeが,どの瞬間もそのくらいの強度を持った快楽であれば,そんなことは問題でもなくなるだろう.現状では,まだ元気がない気がする.