遊園地再生事業団『ニュータウン入り口 または私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入を決めたか』(作・演出:宮沢章夫,作曲:桜井圭介,三軒茶屋シアタートラム)

を観に行った.宮沢章夫の作品についてずっと気になっていたことが今回も気になった.それは,作品がテーマに解消されてしまうのではないかということである.そんなことはない.と言うのは簡単だが(なぜなら「そんなことはない」部分を列挙することは簡単だから),しかし本当にそんなことはないのか.宮沢章夫の作品は,さまざまな象徴体系と記号論的に結びついている.そしてその結びつき方は比較的分かりやすい.encodeとdecodeの体系を読みとることは容易だ.それでもってしてさまざまなテーマ系と結びつく.しかし,それがどうしたというのだ.それならば最初からそのテーマについて語ってしまえばいいものを,なぜもったいぶった位相に写像して演劇にしなければならないのだ.そのようにさまざまなテーマ系を重ね合わせることによって共通の構造が見えてきたり,あるいは新しい詩情が生まれたり,何かそのような利得があるのであれば話は分かるが,しかしそのような利得は今回の作品では感じられなかった.テーマの先に何があるのだろうか.あるいは,作品からテーマ系を抜き取ったときに,残った部分にこそ演劇的な快楽があるのではないかと思うが,それもよく分からなかった.その点において,若松武史さんが面白いのは,素晴らしい.さて,宮沢章夫がある一定の評価を受けている界隈というのがあるが,しかしこの界隈におけるその評価の理由は何だろうか.心配するのは,上に書いたような象徴体系が背後に隠されている感じ,がなんとなくウケているだけなのではないかということだ.あるコンテンポラリーな問題系の匂いを感じることによって,見た演劇を評価してしまう人がたくさんいる気がする.あるいは宮沢章夫はよく勉強するしよく考えているので,それで評価されるのかも知れないが,演劇がなぜ評価されるのかはよく分からない.出てきた作品がすべてだ,などとは思わないが,でも出てきた作品を内在的に理解しようとしたその時に,何か困難な感じがするのである.