中野成樹+フランケンズ『遊び半分』(原作:J.M.シング『西の国のプレイボーイ』より,誤意訳・演出:中野成樹,赤坂RED/THEATER)

を観に行った.面白かった!冒頭からト書きを読んでみたりして,オーソドックスな異化の仕方.セリフ回しにもいかにも「せりふを言ってます」という感じがあって,これもまた異化か.とにかく舞台上で観客を前に演劇をやることの嘘くささに対して極めて自覚的であるのだろうと思って観た(ただし一緒に行った友人はこれを「海外の戯曲を日本人がなりきってやること」に対する自覚であると観たようで,ふむと思った).それは音楽の入れ方や,あるいはせりふに挟む小ネタの挟み方などにもすべて表れていて,色々なことを自覚しながらやっていることがよく分かった.しかもその「自覚してますよ」というアピールがそんなに嫌らしくないので,全体的に極めてすぐれたバランス感覚を持っていると感じた.そうやって「演劇」ということに対して極めて真っ当に批評的・意識的である,その身振りの中に,徐々にドラマが溶かし込まれてくるというのが全体の構成だろう.最後はガチでドラマになっている.そのドラマの溶かし込み方がまた上手い.きっと原作がまず面白いのだろうが,知らないので,原作と演出の境界について考えられないのが残念である.そんな感じで,現代における極めて正しい演劇を観た気になる.難癖つけるとすれば,ドラマのレベルで,結局は「嘘つきはどっちだよ」や「やっちゃった」というせりふに代表される,安直なメッセージ性へと落ち込んでしまう,その陥穽を回避しようとしていないことと,こちらがより重要である気がするが,批評的・意識的であるその身振りが,演劇的快楽に接続していかないということ,が挙げられる.ある安易な気持ちよさに対する批評として異化があるとしても,やっぱり気持ちいいことが好きなので,その点チェルフィッチュはやはり凄い.あの異化の仕方には,異化の先に新しい快楽がしっかり用意されているからだ.だからフランケンズは役者が魅力的に見えてこない.(役者の上手い下手ということもあるだろうが)唯一魅力的に見えたのは,唯一ドラマだけの世界にいた「クリスティの父」であったのは示唆的である(この人だけは演劇に対する自覚,というような身振りをしない).と考えてくると,ある,優等生的でインテリ的な,減点のない演劇に過ぎなかったのだろうかという風に考えが巡るが,いや,決してそんなに駄目ではなかったと思うのである.というか,ちゃんと頭を使って作っている感じはすこぶる好感と共感を覚えた.