COLLOL『arrow〜野田秀樹作『贋作・桜の森の満開の下』より』(words&direction:田口アヤコ,音響演出:江村桂吾,王子小劇場)

を観に行った.もう,こういう時代は終わって良いのではないかと思うのである.時代に関する感覚は,まぁないならないで良いのだけれど,あったら良いと思います.それは,同時代を生きる,というレベルでの共同体が,成し遂げたことと直面した問題と乗り越えようとしている方途と,とにかくそんなことを感じる感覚だからです.ある直線的な物語と,それを語ることの困難に「人類」が気づいたのははるか昔のことで,それは色々な仕方で解体されて分析されてパロディされて来たけれども,乗り越えられた問題であるとはまぁ言えない.むしろ解けないことが証明された問題,に近い地位でもって認識されているように思われるが,その問題に取り組む過程では,物語やそれを語ることについての理解や,あるいは本質的に何が問題なのか,が常に明らかにされ続けてきたのであって,思考することをやめて放り投げてきたのは常に「裾野」の人たちである.文化に存在する麗々と連なる「山脈」には,常にその脇につまらない「裾野」の人たちを従えていて,その様相はまぁ何というか残酷というか壮麗な人間というものについて考えさせられるが,そう,「裾野」の人たちは,本当に下らないことを,ものすごい物量となだらかさと広大さ,そして何よりもぬるさでもって受け継いできていて,でも,そんなことってもうやらなくていいのではないだろうか.いや,「裾野」だって必要だし,自由にやっていいだろ,って,そんなことを言ってもいいけど,まぁ,それは,誰かが言ってくれればいいや.しかし誰もそんなことなど言わなければ,いいと思う.時代に関する感覚は,常に堆積されていって,それをフォローするのがどんどん大変になっていくかと思いきや,別にそんなことはない.現在五十歳の人より三十歳の人の方が,その二十年に起きたことをフォローしなければいけない分たいへんかと思いきや,その二十年のあいだの感覚はイヤでも身についているので大丈夫である.だから現在の二十代はポストモダンの感覚に悩むのではなく,上の年齢の人がわざわざその感覚について大仰に語ることに困惑するのである.現在大勢を占めつつある,と,時代感覚のあるワタクシが感じますのは,ポストモダン,の擬似問題性であります.そんなこと言ったって,というかたちで,そんなこと言ったって私たちは生きているわ,と続くか,そんなこと言ったって痛いものは痛いし美味しいものは美味しいわ,と続くかは分からないにせよ,この「そんなこと言ったって」性が,薄い実存性によって明らかにされて無効化されていく,そんな時代ではなかろうか.だから,いま,「そんなこと言ったって」なことをやられても,困ってしまうし,「そんなこと言ったって」に対して別な「そんなこと言ったって」をぶつけたところでしょうもなさが上塗りされるだけなのである.