高村薫,2006,『照柿(下)』講談社

読了.現代の『罪と罰』と紹介されていて,って,まぁそれはそうかも知れないが,しかしだとすれば『照柿』のラスコーリニコフは人を殺さないのである.よく『罪と罰』があらすじで紹介されるときなどは,ラスコーリニコフは自分を殺人をも許された天才だと思いこみ,その理念によって実際に殺人を犯すに至る,などと描写されるが,しかし,それはあらすじとしては不完全であり,誤読ではないか.実際にあるのは「自分がどこまで行けるのか,どこまで可能なのか,ひとつ試してみよう」という心理である.『照柿』のラスコーリニコフは殺人を犯すのではなく,刑事としてのさまざまなタブーを犯していくが,この箍が外れる感じというのが『罪と罰』なのだろう.「つまらない」制約から自らを解放して,可能性の方へと自身を開いていく果てに,ある空虚感が訪れる,その空虚の手触りこそが小説としてはもっとも描き甲斐のある部分であり,また読んでいて胸を打つのは,その空虚をあとになって抱きしめようとしても,既にそこには何もない,という哀切さなのである.そして自分はと言えば,いつの間にかつまらない箍を外し続けているのである.空虚さはまだない.