『時光−蔡國強と資生堂』(資生堂ギャラリー)ほか

に行った.「ほか」は本当に「ほか」で,いくつかギャラリーに行ったのだが,とにかく蔡國強について書きたいことはちょっと下らない種類のことだ.爆竹使う中国人というくらいの認識だったのだが(あとは彼の作品である直島の文化大混浴では実際に混浴したくらいの),作品の実物は近くで見てみるとその質感なんかが凄くモノ派っぽくて,考えてみればそれはすぐ分かるような気もするがしかし実際に見てみるまで考えもしなかったのであった.しかし考えてしまうのは,この資生堂の展示のために,友人の作品が撤去(とそのための解体)を余儀なくされたことである(http://d.hatena.ne.jp/fibonatti/20070618).文字通り「火薬の臭いがする」ことをやりながら作品タイトルに「暴力」なんて言葉をまんま使ってみたりする作者も(このことのコノテーションはわざわざ説明するまでもなかろう),また,ある制度の中にいて,それはアートという制度なのである.そしてその制度は不可避的にやはりまた暴力を内在しているのである.という,これは下らない安直な種類の話だ.次に行ったのはギャラリー小柳の須田悦弘展である.何だろうなぁと考えた.図と地の反転なんてことを考えたのだった.ろくに作品そのものを見ていない.というほど見ていないわけでもないのだが(造形としての確かさ,色遣い,曲線や質感など,もちゃんと見てますが)まずは考えた.じっさい非常にコンセプチュアルなキュレーションなのだから,考えないでどうするという気もするが,しかし,一方で作品の美的強度は須田悦弘においては無視できないものがある.もちろん,それは,あの白い壁なり打ちっ放しのコンクリートなり,そういうシチュエーションの中で生まれる強度である.さらに留保をつければ,この作品が浮き彫りになる感覚というのは,実はやや怪しくて,構造的には太宰治潜在的二人称と同型ではないか.という疑義を思わず持ってしまったのは,そこにマイクロポップ的な微少な物語への回帰を読みとることができるからである.「見て見てここにも!」とはしゃぎまわるという観客が不可避的に微少な物語へと参与させられている,その枠組みまで含めての作品ということであり,これは広義の客いじりにあたるのではあるまいか.田中功起が素晴らしいのは,その小さな物語を映像作品のなかで完結させていることである.自分は異常に客いじりを嫌うので,須田悦弘よりは田中功起の方が上品(客をいじらない分)で好きだなぁ,と,客いじり嫌いのあまり妙な比較が頭をよぎる.ともかく,そのようにいじられた客は何とも巧妙に作品と一対一の関係に落とし込まれ,「あなただけよ」の世界で,ある微少な出会いを演出させられるのである.そのような空間の中で,須田悦弘の作品は美的なのである.だから,この写真はよい写真だ.作品と向き合っていたその時よりも,思い返す記憶の中で美しい.あと他にもいくつかギャラリーに行ったが,そこまで特に感じるところはなかった.つまるところ蔡國強も須田悦弘も大いによろしかったのである.