『友枝昭世の会』(国立能楽堂)

に行った.演目は「文蔵」(野村万蔵)と,「邯鄲」(友枝昭世).まぁ色々あるのだけれど,とにかく囃子方が好きすぎて困った.笛の一噌仙幸なんて本当に音の寂れ方など素晴らしいし,後は大鼓の亀井忠雄と小鼓の成田達志の相性が素晴らしく,陰と陽という感じで,大いに感じ入った.陰と陽と言えば,シテの友枝昭世と,一瞬出てくるワキの宝生閑の関係もそのように思われて,特に宝生閑の発散する陽の気はなんだか空恐ろしい感じすらするのであった.友枝昭世は,舞や,あるいは本当に基本的な型が絶妙のうまさであるということは,これはもうすっかり分かってしまった.ようやっと劇的感興として感じ入ったのだった.それは本当に物語というか詞章の解釈と密接に結びついていて,友枝昭世の演能は,その意味で,きわめて理知的である.観客は能舞台に対して,他の諸舞台に対するよりもずっと「出て」いかなければならず,客席に引っ込んでいてはならない.それが「想像力」と言われたりするのはそれはその通りだと思うのだが,演者の側に「ぶれ」があると,観客はうまく想像力を働かせることが出来ない.それは高い意味での「つじつま」に関することである.高い意味で「つじつま」のあわない舞台に対しては,観客が働かせる想像力も不定型なものにならざるを得ない.そんな感じのことに関して,今回の上演は,完璧であった.本当にあまりによい舞台で,大いに驚き,そしてなんだか気分が悪くなりさえしたのは,プライベートでの色々な重いことと,舞台の重さとが,全く別の位相であったからで,これが普通の演劇などであれば「全く別」などということはなくて,何かしら異化されたり相対化されたりして,それでプライベートの重さがちょっと軽くなったりするのだが,この能という芸能はどうもそういうことはないようで,お金を払ってつらい思いをしに行っている気もした.