山賀ざくろソロダンス公演『卒業』(千歳烏山Studio GOO)

を観に行った.民家みたいな会場で,こぢんまりと.山賀ざくろは初見だったが,もっと踊ってほしかった.あの内容で二千円では高いのである.動き始めると,康本雅子と共通するヴォキャブラリーの多いことに気がつく(ちなみにこのヴォキャブラリーについては個々に検討してみなければならない.頭を抱えてみたり視線を飛ばしてみたり,わりと抽象度の低いエモーショナルな部分というのを,ちゃんと腑分けして個別に見てみると,これは意外と身も蓋もなく,コンテンポラリーダンスというものが自己憐憫の文化,隠微な癒し系であることの暴露になるかも知れない.ならないかも知れない.).しかし,山賀ざくろ康本雅子に比べるとはるかにからだが出来ていないので,そこはどちらかというと何か情けなさのようなものが先に立つ印象になる.クライマックスはYMOの最近出たヴァージョンのRYDEENで,圧倒的に強大なこの音楽に対して,どちらかというと情けない感じの身体が立ち向かうという,悲壮感のような叙情がある踊りで,しかし,その情けなさたるや堂々たるものであった.思えば音楽という完全無欠なる非現前のものに対して,踊りはいつでもその不完全な身体でもって挑戦し続けてきたのかも知れず,それは演劇と音楽との関係とは全く異なるものであり,また映画とも違う.身体のどうしようもない現前性の,そのしょうもない,情けない,みっともない感じこそが,山賀ざくろの持ち味であろう.と,一回観ただけで思っている.なぜなら,この男性は,しばしばセーラー服を着て踊るというからだ.これはまぁ傍証と考えて差し支えないのではないか.それにしても,踊りとは直接関係ないかも知れないしあるかも知れないけれど,会場の観客がみんなして知り合い同士みたいなしょうもない状況は,本当にしょうもないな.大丈夫か,コンテンポラリーダンス