現代能楽集III『鵺/NUE』(作・演出:宮沢章夫、出演:上杉祥三/中川安奈/若松武史ほか、シアタートラム)

を観に行った。傑作!素晴らしかった。最初からタバコだのマクドナルドだのスタバだのグローバリゼーションだの、やれそんな言葉はやめろだの、いやー、ただの連想ゲームかもしれないが、それにしても連想した。タバコが出てくるせりふなどは、本当にもう連想したわけだが、そして、タバコの煙に言葉を託そうとすることは結構恥ずかしいというか、わりとヒロイックな位相に属することに思えるのだが、そこを何とか恥ずかしくない方にもって行く宮沢章夫の言葉には強度がある。そして、演劇について語る言葉だ。自分は演劇制作の現場にまったく関わったことがないのだが、演劇関係者が聞いたら恥ずかしいせりふだったのかもしれない、そのせりふが自分にはちっとも恥ずかしく聞こえず、そして、それを語る役者のからだと相俟って、何て良い演劇なんだと思ったのだった。言葉と役者が魅力的に思えたら、演劇を観に来た甲斐があるというものだ。「女優」という、おそらくはその名前というかカテゴリーというかとしての問題系というか問題意識が前作『モーターサイクル・ドン・キホーテ』では分かりづらかったのだが、今回はよく分かった。色々連想したのだが、連想その一、すっかり忘れていたが、清水邦夫のものでは「ぼくらが非情の大河をくだる時」の、ク・ナウカによる上演を観ていたのだった。今回劇中劇として登場したそれは、どこかで観たことがあると思いながらも何と言う作品だったか最後まで思い出せず、家に帰って昔書いたものなど読んでみたら、ク・ナウカの上演については、「いまいち。今の時代、これはなぁ、という感じ。」としか書かれていなくて、われながら、われながら。こうもうまく回収されると面白いとしか思えない。連想その二(まぁこれはちゃんと言及があるが)、『パリ空港の人々』は、傑作であると思う。その三、やはり手塚治虫の『どろろ』の身体は実は凄く面白いのかもしれない。その四、盗撮という問題系。については束芋の「公衆便女」。あるいは『セックスと嘘とビデオテープ』。直接は関係ないが、その五、subjectificationとidentificationの違い、coming-outではなくてbecoming-outであるということ、ある種のカテゴリーはそれに属するのではなく、不断にそのカテゴリーの成員に「なり」続けることしかできない。女優というカテゴリーはどうか。その六、橋掛かり。その七、新宿はもうない。いや、いつだってなかったはずなのに、「ある」ように思えた時期があった。らしい。もっとたくさん連想したのだが、ほとんど忘れた。別に色々連想したら面白い演劇かというとそれとこれとはまったく関係ないのである。しかし、うーむ。「おまえたちは賢いなあ」というせりふを「一生忘れない」と言った岡田利規は、いったいどんな意味で「一生忘れない」などと言ったのか。シニシズムの問題だとすれば、それは多分すでにいまやシニシズムという言葉では追いつけないのではないか。そうだ、女優になどなるな。