『生誕100年記念ダリ回顧展』(上野の森美術館)

に行った。「私はダリでしょう?」というコピーが本当に素晴らしい。AERAのようだ。そう、ダリはきっとこういうセンスを喜ぶ、ふざけたやつだったと思うのだ。そしてこのコピーが展覧会全体のとてもいい空気を規定しているように思われた。展覧会冒頭、最初期(というか青年期)の風景画や「父の肖像」、印象派風の油彩でダリのテクニカルな側面に感心したおば様たちが、エログロなイメージがあらわれだしたとたんに「あら〜」と声を上げ、「せっかく上手なんだからもっとキレイな絵を描けばいいのにねぇ、もったいない」とのたまっているのを聞くにつけ、なんだかいい展覧会だと思ったのだった。所蔵先の規定なのか照明は少し暗いと感じたし、「柔らかいチェロは無力な文化の象徴です」とか書いてある無駄に断定的なキャプションもいただけないが、ただ「ダリでしょう?」という駄洒落にして同時に深遠なコピーによって、ダリは的確な脱呪術化を施されたと言えるのではないだろうか。ダリをシュルレアリストとして解釈するならば(もちろんダリが「本当に」シュルレアリストかどうかには議論の余地があるにしても)、象徴主義解釈は唾棄されるべきだ。たとえそれが精神分析のレベルでの象徴というターミノロジーだったとしても、である。シュルレアリストを夢マニアとか精神分析オタクとかと勘違いしてはいけない。もしダリをシュルレアリストとして解釈するならば、彼の作品に描かれているイメージは、彼の剥き出しのリアリティそのもの、を視覚イメージとして表象したものである。そのように考えれば、初期のリアリスティックな作品として有名な「パン籠」がまったく違って見えてくることに気がつくだろう。この「パン籠」という作品は、籠に盛られたパンを、非常な技術によってただただリアルに描いたものとして紹介され、その技術がゆくゆくはエキセントリックな諸イメージを表象するのになくてはならない、つまりダリを語る上ではずせないトピックとして扱われることになる。しかし、不変で普遍の技術という土台の上で、描く対象だけが変わったという単純な話を肯んずることが果たして出来るだろうか。出来ない。なぜなら、「パン籠」という絵はどこか変だからだ。パンの切断面や布の影という分かりやすい変な部分に加えて、全体としてよく分からないけど変だと感じる。それはおそらくは、純粋に視覚的なイメージに還元されない、パンというイメージの位相に属するものが表象されているからだ。作品はみな異なるのだから作家論にどれほどの意味があるのかという向きにも共感できないわけではないが、今回の展覧会で言えば10歳くらいの時のデッサンに明らかなように、一人の作家のなかで驚くほど変わらないものがあるのも確かだ。「私はダリでしょう?」というのを駄洒落として捉えたその返す刀で文字通り「私はダリでしょう?」と問うダリを想起することだ。