『アジアの女』(作・演出:長塚圭史、出演:岩松了/富田靖子/菅原永二/近藤芳正/峯村リエ、新国立劇場小劇場)

を観に行った。初長塚圭史。うーん。あまり面白くなかった。それは多分ストーリーがいけなかったからだと思うのだが、もしかすると自分はストーリーというものに対する理解が足りないのではないかという不安というか危惧というかを常々抱いているので、よく分からない。阿佐ヶ谷スパイダースは未見なのだが、新国がふた月に一度発行しているステージノートには「過剰な言葉の洪水、衝撃的な展開などで演劇界に強いインパクトを与えてきた長塚が、自ら「最小限の台詞と最小限の出来事」でと語る新境地となる作品に注目が集まる。」とあって、大体どんな事態だったのか推測はついた。期待していた役者陣は期待通りのよさで、岩松了などは特に良かった。しかしそれにしてもまたも観客である。自分自身はと言えば開演から三十分くらい経って、ようやく脚本がコミカルな、笑わせようとしているものであることに気づいたのだが、観客ははなから笑いまくっている。しかも笑い方があれだ、NHKをみる善良なおじちゃんおばちゃんの笑いなのだ。実際新国の観客は中高年層がいやに分厚いのが特徴である。そいつらが屈託ない風に笑う。これは勘弁してほしい。笑うな。面白いと思ったところで笑い、悲しいと思ったところで泣く権利がある、観客として金を払っているのだから、などと思われては困る。もちろん、今回の作品には面白い部分もあったのだ。しかし以前も書いたと思うが、弛緩しきった老人の笑いの向こう側には、開いた瞳孔が透けて見える。ある提示されたものに対してどんな反応を示すかという問題は、多くの場合は高度にコード化された規範の束として理解されるべきだろう。高度にコード。まぁいいや。それでモノがやれ芝居だ映画だテレビだとなるととたんに反応は笑うと泣くのふた通りしか、そのふた通りの快楽のあり方しかありえないかのように振舞う観客。笑えないものを笑わないでおく自信はおろか、分からないものを分からないままにしておくだけの自信もないのだ。ふざけるな。どこに行ってもそんな観客の笑いを聞かなければならないのかと思うと、本当に暗澹とした気持ちになる。劇場や映画館美術館がどこもそんな風なら、眠剤が必要だ。すでにチョコレートは摂ってるし、痛いのは苦手だからカッターナイフはちょっとな。