『With Neighbor's Karaoke』(吉祥寺GRID605)

に行った。当日夕方いきなり「キャンセルが出てチケットが用意できた」という旨のメールが届いて、同行者を見つけるためにかなり色々な知り合いに電話をしてしまった。恥ずかしい。そしていくたりかの人の信用を損ねたのではないかという気もする。無念。ちなみにライブの方は吉祥寺駅公園口を出てすぐのマンションの一室で行われた(三浦大輔による演劇実験『ウラゴコロ』をほうふつ)。最初のセットはヴァイオリン勝井祐二。なかなかよかった。次はギター半野田拓。あまりよくなかった。休憩を挟んで三人目は大友良英(何かつまみを回していたがなんだろうあれは)。よかった。最後は芳垣安洋(はじめてみるパーカッション二種をこすったり叩いたり)。よい。それでそのあと大友良英のニューヨークでのライブ映像が映写されておしまい。全体的にナム・ジュン・パイクジョン・ケージの音響作品をほうふつ(追記:忘れてた!何よりもフルクサスである)。しかしこうやってよいとかよくないとか書く以外にどうしたらいいのか。即興による完全アンビエントに対して、興味深い聴覚体験であるかどうか、ということについてどのように語ったらいいのだろうか。和声やメロディでもなく、リズムでもなく、ただ音の色彩とマチエールによる快楽を体験したときに、それらは如何様に語られるべきか。語られうるか。音が総体として、というような感じのことはONJOのライブでも大いに感じたことだったが、しかしGRID605での体験はまたちがう位相で「総体としての音」ということを考えさせるものであった。要素に分解されないゲシュタルト。記号化を拒むこと。しかしプレイヤーたちは現代アートについてどれくらい関心や知識を持ってどれくらい問題意識を共有しているのだろうか。実は(というか実はも何もないが)凄く似ているかもしれない。フルクサス。うーん。うーん。